恥辱

         ある再生の物語

教師をやめないのは生計のためだが、もうひとついえば、教職は謙虚というものを教えて、おのれがこの世の何者であるかを痛感させてくれるからである。(J・M・クッツェー著“恥辱” より 引用)

 南アフリカのケープタウン大学。
 コミュニュケーション学担当の大学教授デヴィッド・ラウリーは「教える科目に敬意をもてないので、学生にも影が薄い」もはや情熱を失った教師であった。

 52歳の彼は、二度の離婚を経て、自分の無力感と上手に折り合いをつけながら暮らしている。
 かつては、「一日のすべてを家族のために使っていた男」がもはや、一日のうちの90分だけしか女性のために捧げない。

 いまや、彼の人生は、一日が相互に関連のない別の目的のために細切れに切り刻まれていた。



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 彼の人生は、いくつかの断片から成り立っていた。
 大学教授としての顔、娼婦のソラヤと過ごす時間。

 デヴィッドにとって、ソラヤという名の女は、ひとりではない。
 正確には女たちだ。
 最初のソラヤは、ふたりの子どものいる結婚している女性、そして次のソラヤは18歳の女性であった。
 ふたりのソラヤはいずれも、「エスコート・クラブ」の紹介してくれた、「エスニック」というカテゴリーの女性達であった。


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 彼の教師としての虚無感の源は、教師という職業の
「ひとを教えにきた人間が、教えのいちばん痛いところを学び、逆に学びにきた人間がなにひとつ学んでいない(“恥辱” より 引用)」
 という特徴に根ざしていた。

 デヴィッドにとって、しばしば娼婦のソラヤの職業と自分の職業が、同じ種類のものであるようにも、思えるのであった。
 つまりは、求める者は何も得ず、求められる者が何もかもを得る関係である。
 そして、彼は、「何かを得ること」には、もはや興味を失っているのだ。

 ともかくも、そんな生活を送り続けている限り、デヴィッドが得るものは何もない限り、失うことは何もなかった。
 
 彼は、すべてと折り合いをつけて生きていた。
 自分の時間を色々なことにうまく配分し、どれとも深く関わることもなく、誰も傷つけず自らも傷つかずに生きているのであった。

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 ところが、「ソラヤたち」と同様の黒い瞳に漆黒の髪の学生メラニーがきっかけで、彼の生活は崩壊する。
 メラニーは、デヴィッドの二度目の元妻ロザリンドいわく、「本当にあなたの好みの娘」といった容姿の持ち主であった。
 そして彼は、彼女との交際がきっかけで、大学の懲戒委員会の査問にかけられ、失職してしまうのである。

 デヴィッドは、もしそう望むなら、「更正のためのプログラム」に参加することにより、免職を避けるという道があった。
 しかし彼はそれを望まず、大学を去ることを選んだのであった。
 彼の場合、むしろあらかじめプログラムされた崩壊に向かって行動しているようにも見える。
 
 デヴィッドは、むしろ予定調和的に、何もかもを突き崩すことをを望んでいるかのようにもみえる。
 そうしないことには、彼の所属する人生の真空地帯からは、もはや脱出出来ないのかもしれないのだ。

 何故なら彼にとって、大学の教職とは、
「ひょんなことからなってしまった口だ。天職とはとてもいえない。だいたい、ひとに生き方を教えるなどという大志は抱いていなかった(“恥辱”より引用)」
 というものに過ぎなかったからである。

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 人は、自ら望まない行動をとっているように見えて、実は心の底で自分の潜在意識にとって合目的な行動をとっていることがあるものだ。

 実のところは、デヴィッドにとって、女子学生メラニーとの関係がどうでも良いものであるのと同様、大学を去ること自体が「どうでも良いこと」でもあった。

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 デヴィッドには、かつての結婚生活でもうけた、現在は独立している二十代半ばののルーシーという娘がいる。
 彼女は、南アフリカの郊外の農場で、他人と共同生活を営みながら、動物愛護に関わる仕事をしていた。

 そして、失職したデヴィッドは、彼女の住む農場に身を寄せることにする。

 ところが、その農場でデヴィッドと娘のルーシーの身に「ある事件」が起こる。

 そして、「事件」をきっかけにデヴィッドは「どうでも良いこと」であったはずの自分が受けた「恥辱」について、はからずももう一度思いを巡らせることになるのである。

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 彼は、人も羨む「大学教授」という身分に執着をもっていなかった。
 他人から「転落した人生」と見なされても、彼の中での自らへの自己評価には、何の変化も起こらない。
 
 成功していた時も転落した後も、デヴィッド・ラウリーは、相も変わらない虚無感の中に生きている。

 それでは、一度は大学教授と呼ばれ、そして、その地位を無造作に手放してしまった一人の人間にとって、こうした人生の変化は、本当に「どうでも良いこと」であったのであろうか?

 ひとはある年齢をこえたら、教訓など学べなくなる。
 何度も罰されるしかないのだ、と。
 だがそれは違うかもしれない。(中略) 
 私は恥辱とでもいうべき状況に陥っており、そこから抜け出すのは容易ではない。
 しかし、拒んだ罰ではない。文句を言ったこともない。
 それどころか日々それに耐えて生き、こんなありさまの屈辱を受け入れようと努めている。
               (“恥辱”より引用)


 これは、「何もかもを失う」ことでしか人生を再生することの出来なかったひとりの人間の物語である。
 彼の最も恐れていたものは、「価値あるものへの執着」であったのかもしれない。
 そのためには、人生のあらゆる大切なものを否定する以外に方法はないのだ。

 人は、自分の人生にとって最も価値あるものが何であるかを知った時にある種の恐れと執着を知る。
 そうしたことを感じずに生きていくためには、「大切なもの」を心に抱くことを拒否して生きていくしかない。
 言い換えると、本当は自分にとって大切なものを、大切でない振りをしながら生きるしかない。

 何かに執着しながら人生を送ることを恐れる人は多い。
 勿論、過剰な荷物を負いながら人生を送る必要はない。
 
 しかし私達は、何もかもから逃げながら生きていくことは出来ないのだ。
 

Disgrace

  J・M・クッツェー
 1940年、南アフリカのケープタウンに生まれる。
 1983年に、「マイケル・K」でイギリスのブッカー賞、フランスのフェミナ賞を受賞。
 1999年、本書「恥辱(Disgrace)」で、史上初の二度目のブッカー賞を受賞した。
 2003年ノーベル文学賞受賞。
  
 本書は、南アフリカの都市ケープタウンを舞台にした小説である。
 しかし、それがアメリカ東部といってもイギリスといっても、あるいは日本といっても通るような、ある普遍性を有している。
 都市に生きる現代人の共通性ともいえるアイデンテティ・クライシスの問題を扱った本書は、恐らく現代最高の小説のひとつであることは間違いがない。
 本書の特徴としては、このように世界の都市部に共通する現代的な生活やテーマを扱いながらも、その中に南アフリカ特有の政治、人種の問題が透けて見えるという点であろう。
 それが、物語全体に、特有の厚みを与えている。


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