質問は、単に情報を引き出すためだけに役立つのではない。質問がその形式においてさまざまに違い、そのため、ある質問によれば多くの情報が得られ、あるいは少ない情報しか得られないという単にそういったことではない。
      (“エスノメソドロジー―社会学的思考の解体”より引用)

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 私達の自然な会話というものは通常「インタビュー」のような形式で「相手に尋ねたいことを矢継ぎ早に尋ねる」という形式では成り立っていない。
 つまりは、自然な会話というものは、「具体的な情報を抽出する」というような明快な目的で成り立っているわけではない。

 しかし、この事実にも関わらず、私達の誰もが、自然な会話の中で「相手の真意」「事実」をより正確に理解する必要に迫られている。

 それでは、通常の自然な流れの会話の中で、出来る限り真実を正確に取り出すためには、私達はどのような手法を用いたら良いのだろうか?

 それを理解する前提として、まず重要なことは、私達は「自然な会話」というものを通常、どのように理解する傾向があるのかということを知るということである。


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 私達が相手のことを理解するために用いる手法は、数多くある。

 その多くを占めるものは、私達自身が自覚していようがいまいが、恐らく、
<無意識の>視覚情報、聴覚、触覚といった、身体感覚に直接訴えかけてくる情報であろう。
 過去記事:無意識の脳 意識の脳―身体と情動と感情の神秘

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 しかし、こうした形にならない情報によって得られた思考は、いずれにしろ、言語という過程を経て、初めて私達の血肉となる。
 つまりは言語化という過程を経ない限り、どのような思考も感情もある意味「存在しないこと」ということにしてしまえるのである。

「言語」とは、私達に安心感を与えるツールである。
 相手の思考、感情が理解できないという不安が、はっきりとした言葉に変換されることによって、解消できるのだ。
 
 それとは逆に、曖昧にしておきたいことは、すべて言語化しないままにしておくことにより、その思考、感情から逃げ出すことが出来るということも言える。

 言語とは、ある意味、私達の覚悟である。

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 その言語表現には、話し言葉と書き言葉がある。
 
 しかし、「演説」「講演」などは、広い意味では書き言葉を喋るという行為である。
 そう考えると、言語表現には、大きく分けると、
 「能動的に表現した言語表現」と、自然な流れのうちに形成される「会話」のふたつに分けた方が良いのかもしれない。

 いずれにしろ、ジェスチャーや表情といったもので伝えた事柄は、後から、
「あなたの勘違いである」などといった形で取り下げることが出来る。
 しかし、一旦言語として表出されたことは、取り下げることが難しい。
 
 その中でも、同じ言語表現でも、会話に比べて書き言葉(もしくは能動的な言語表現)にしたものは、より取り下げることが難しい。
 それは「証拠」として残るからという理由だけではない。

 一旦書き言葉にしたものというのは、例え、それが書かれた紙が破り捨てられてしまった後でも<現代であればそれが書かれたファイルが削除されたりメールが消去された後であっても>私達の脳裏に、ある消せないインパクトというものを残すことになる。

 それは、書き言葉というものが、話し言葉に比べて、より曖昧さを排除している存在であるせいなのかもしれない。

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 それに比べて、通常のごく普通の会話というものは表情やジェスチャーといった非言語的な表現が言葉の隙間を埋めつつ進行するものである。
 
 書き言葉というのは、そうしたもので補うことが出来ない部分を、すべてをある程度かっちりした論理で構成しなければならない。
 それは、どのような「他愛もない」文章でも同じである。

 その結果、却って伝えたい「言葉にならない」部分が伝わらなくなるのが書き言葉の運命といえるものなのかもしれない。

 そうした書き言葉の「欠点」を補うものとして、古来「感嘆符」などが存在した。そして近年ではそのバリエーションとして「絵文字」が言葉の隙間を埋めるための、表情やジェスチャーといった部分といった部分の代わりをしている。

 ここで注意したいのは、私達は、本当に表情やジェスチャーを言葉の隙間を埋めるために用いているのかということだ。
 
 つまりは、発想を転換すると、私達にとっては、表情やジェスチャーなどで伝えきれないことをやむを得ず言語化している状況が存在するのではないか?という問題である。

 私達は、どこまで言語というツールにより、自らの思考や感情を伝え、また相手の言葉を理解することが正確に出来るのか?という疑問がここに生じるわけである。
 
 その疑問は、書き言葉以上に、とりわけ「会話」という流れを解釈する上においては顕著である。

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 会話というものは、こうしたある程度かっちりとした存在である「書き言葉」にも、言葉を伴わない表情やジェスチャーのどちらにも所属しない<もしくは両者に所属する>かなり曖昧な存在といえるかもしれない。

 そのように考えていくと、私達は、日常においてその会話の曖昧さとどのように付き合っているのであろうか?

 つまりは、そもそも私達は、相互の(もしくは複数の人間の間で交わされる)自然な会話をどのように解釈しているのであろうか?
 一字一句の語彙を正確に解釈し、文意を理解しているのではないということは間違いがない。

 私達は、お互いの自然な会話を理解する上で、何らかのキーワードに基づき、会話をあるクラスターとして規定していることは間違いがない。

 その基準とは、恐らくあるエスノメソドロジー的表現でいえば、
ある特定の 社会的規範(コード)なのであろう。

 つまりは、私達は、相手の会話を「より正確に耳をすませて」解釈するのではないのかもしれないということだ。
 むしろ、私達が会話をする上で行なっていることは、相手の発言を無意識のうちに「好悪」「善悪」」「正誤」といった基準で、二者択一的に振り分けているのかもしれない。

 これは、恐らく、他愛もない日常的な会話でも、込み入ったディスカッションでも同じかもしれないのだ。
 
 これは、多分、視覚認識において私達が「りんご」を見て、それを「りんご」という抽象概念に置き換えることと、ある意味では似通った過程なのかもしれない。
 私達が、りんごの皮の色の細かいグラデーションや細部の形態を認識しないように、私達は、通常の会話の細部を認識していない。
 過去記事:内なる画家の眼―創造性の活性化は可能か

 そして、自分にとって重要な「キーワード」を膨らませてそれをある意味拡大解釈しているということが言えるのかもしれないのだ。
 その「キーワード」が個々の人間にとって違う以上、同じ会話を耳にしてもその解釈の流れが違うのは当然のことである。
 恐らくこの事実が、自然な会話から事実を分析することの大きな妨げになっているのは間違いがない。

 実際の出来事は、そのまま事実になるのではない。出来事をカテゴリー化する適切な手続きを用いることによって、実際の出来事は事実へと変換されるのである(“エスノメソドロジー 社会学的思考の解体”より 引用)


エスノメソドロジー―社会学的思考の解体

 「自然な会話を解釈する」という一手法としてのエスノメソドロジーの概念は、ある意味静かな流行になっているようです。
 しかし、この非常に複雑な概念を、私が逐一ここで解説するのは妥当ではないように思いますので、ここでは、このエスノメソドロジーの概念を多少踏まえながら、「会話を理解し分析する」ということに関して私が常日頃感じていることをぼんやりと記述してみました。
 従って、ここに書かれたことが、エスノメソドロジーの解説とは思わないでいただきたいと思います。
 エスノメソドロジーの本来の概念については、詳しくは本書をお読みいただければ幸いです。
 本書では、エスノメソドロジーの主流である、会話分析の実際の手法はあまり取り上げていません。
 むしろ、「会話を解釈するとこととは何か?」という基本概念についてまとめた本です。
 エスノメソドロジーの個別の方法論を読む前に、一読する本としては最適なように思いましたので、ここに取り上げさせていただきました。


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