白の闇 ジョゼ・サラマーゴ著
  人は過去に認知されたことのない現実とどう向き合うか?

 人はありえない事態に遭遇したときに、それに対してどのように対処するのであろうか?

 ポルトガルの作家、ジョゼ・サラマーゴの作品「白の闇」は、「現代の奇病」とでもいうべき架空の疾患を通じて、その問題に鋭く切り込んだひとつの寓話である。

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 ある日、ヨーロッパのとある国に、本書の言葉を借りれば「眼をあけたまミルク色の海にとびこんだように、ぶあついのっぺりとした白い色が見える」ような「白い闇」が眼前に広がる奇妙な失明を来たす奇病が発生した。
 その病気は「ある男」から始まり、彼と接触した人間は、次々に即座に同様の失明を来たす。

 その奇妙な「失明をきたす」疾患は発端者である「ある男」から、その周囲の人々に瞬時に伝播していく。
 男が受診した眼科医の診療所に居合わせた他の患者たち、そして、その男が失明したときに乗り捨てた車を盗んだ犯人に同じ症状が出現する。
 更には、その男が受診した眼科医も、同じ病に冒されてしまう。
 
 人々は、次々にその「白い闇」に取り込まれていくのである。

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 こうした「過去に存在しなかった現象」に対して適切に対応するためには、少なくともふたつの段階を経なければならないことは間違いがない。
 
 まず第一に、「その事実が存在すること」を確実に認識すること。
 これが実のところは、最も難しい関門である。
 
 そしてそのステップを終了して初めて、すべてが始まる。
 つまりは、事実が事実として認識されないことには、それに対して具体的にどのように対応していくか?という個別の方法論には移行できないのである。

 
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そしてエイズは蔓延した〈上〉
そしてエイズは蔓延した〈下〉
*HIV感染症は、まずその存在を誰もが信じなかった。
 そこから始まった現実が、人々にはっきりと認識されるまでの紆余曲折を細部に至るまで描写したノンフィクション。
 「白の闇」と併せて読むのに最適と思われます。


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 「白の闇」で起こった出来事も、まさしく、「誰もがそれを信じない」段階からすべてが始まった。
 「ここに描かれているような、空気感染もしくは接触感染で次々に失明するような病気は過去に一切存在していなかった」
という仮定から、本書のストーリーは始まる。
 
 自らもその病に感染した眼科医は、自身が失明した後、職業倫理に基いた行動をとろうとした。
 つまり、この「奇病」を最初にその疾患を発見したものの務めとして、その国の「厚生省」に電話で報告をしたのである。
 しかし、役所の役人は「いたずら電話」と決め付け、その電話をとりあわなかった。


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 ある意味、本書のタイトルが、何故「白の闇」なのかということ自体が、象徴的な出来事である。

 「心の闇」は大概、暗闇ではない。
 
 それぞれの個人にとって、はっきりと照らされた「明白な事実」と思われることが、心の闇を生むのかもしれない。
 
 つまりは、「道は明らかである」「この道を進め」ということがはっきりとしていると思える時ほど、私達の人生には落とし穴があるということである。
 
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 「ありえない現象」に遭遇した瞬間、全ての人の心には一種の真空地帯のようなものが生じる。
 
 そして、ようやく、その真空地帯から這いずり出たとしても、その「過去にありえなかった未曾有の現実」を周囲の人々に伝えることには多くの障害がある。

 人が事実を事実として認めるには、「証拠」がいる。

 しかし、こうした事態が始まったばかり初期の段階では、確実な「証拠」はない。例え証拠があったとしても、筋道だてて論理性をもって他人を説得することが出来るだけの代物ではなく、ピットフォールだらけの不完全なものであるのが普通である。
 こうした現実が生じたとき、多くの場合、存在するのは、かなりあやふやな「事実」それのみなのである。

 そして、「科学」に携わる人々は、論理の欠如を非常に嫌う。
 更に付け加えるならば、言いにくいことだが、過去に樹立された「権威」に反する発言をすることも、非常に嫌う。
 そうした世の潮流に逆らって、裸の王様を裸だと指摘する子どものように振舞うことは、本当に勇気のいることなのだ。

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 また、こうしたことに付き物なのは、後手にまわった批判である。

 すべての状況証拠が出揃い、論理が確立した後では何でもない当たり前のことでも、「最初の段階」では、皆目「霧の中」なのが科学的事実というものなのだ。

 そうした混乱した状況で、「先駆者」の言うことを信じ、それを承認するということは「普通の人々」にとって、非常に勇気のいることなのである。

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 勿論のこと、これらの事実は、「科学者」以外の人々にも、普遍的に当てはまる事実である。

  
 こうした未曾有の事態が発生した初期の段階の混乱が、何らの適切な処置もなされずに、混乱のままに放置されるのは何故なのか?という問いに対する答えの鍵はそこにある。

 ここで大切なのは、問題を放置してしまう人達というのは、「特別に無責任」な人々なのではないということが殆どである。
 むしろ、日頃はごく当たり前の「常識」を重んじる、ごく「普通の人々」、つまりは私達の多くと同じ種類の人々が、混乱に拍車をかけているのだ。

 つまりは、「繰り返される」不祥事というのは、ごく平均的な、私達と同じ種類の人々によって引き起こされているのだ。


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 新種の感染症を例にとれば、最近でこそ、こうした疾患が次々に発生しえるということは、ある程度広く認識されている。
 こうした新たに発生した疾病が、交通機関の発達により、物理的な意味で、時間的・空間的にも伝播速度が短縮しているために、危機が常に存在しているということも、多くの人の知るところとなっている。

 ともかく、このように、「新種の感染症は存在する」という前提で人々が動いている現代においては、「奇妙な病気」の存在を報告することは、以前に比べてたやすいことであろう。
 もはや、「新しい感染症の最初の報告者になることにより、奇異な目で見られる」というようなことは起こらなくなりつつある。


 しかし、過去においては、そうではなかった。

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 過去にも、人間の歴史は「新しい病気」との闘いに明け暮れていたが、世界がこのように狭くなるまででは、こうしたことが「世界的な危機」に発展する可能性はもう少しゆっくりとしたものであった。
 場合によっては「辺境の疾患」として封印され、消滅してしまうことも多かったわけである。

 過去記事:銃・病原菌・鉄―1万3000年にわたる人類史の謎語

 
 そうした時代は長く続き、ある意味ほんの20年位前(実際の発生は1960年代に遡るが)、HIVの衝撃が世界を襲うまでは、「新種の感染症」というものは、ありえない事態の代表選手のようなものであった。

 そうした中で、このような「新しい病気」について語ることは、本当に勇気のいることであったことは想像に難くない。。

 繰り返しになるが、新しい事実に気付いた時、それを言い出せないのは、他人の前で「格好をつける」というような理由だけではない(それもあるが)。

 まずは、「信じられない!」という自分自身の心の真空地帯との戦いを通り抜けなくてはならないという問題が存在する。
 自分の中で、全く新しい現象を整理し、とにかくも前に進むという勇気が必要なのだ。


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 私達は、「ありえない事態」「まったく新しいこと」を信じるのが普通はとても苦手である。

 多くの人は、そうしたことに対応する心の訓練や、思考の鍛錬をしたことがない。

 教育というものは、過去に蓄積した膨大な事実に基づく仮定条件を利用してモノを考える訓練をする場である。
 それ自体はとても大切なことであることは間違いがないし、それなくしては、そもそも科学は存在し得ない。

 しかし、「虫食い状態の条件」「単なる事実」を基に新しい発見をしていく段階というものが、その訓練の次に存在する。それに耐えうるだけの、より高い次元の論理性を備えることは、非常に難しい。


 真の科学者精神やフロンティア精神をもっている人達にはそれが存在するが、普通は、中々そこに到達できるものではない。

 その結果、多勢に追随しようという烏合の衆的な心理で動いているのが、ごく普通の私達の姿というものである。
 そして、全ての結果が出揃ったときに、過ちを犯した同胞を非難し、「石持て追う」のが私達の多くの悲しい姿なのである。

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 そして、「白の闇」において、この「世にも恐ろしい病気」がようやく人々に認知された後に待ち受けていたものは、お決まりの「過剰な差別」と過酷なまでの隔離政策であった。 
 
 事実をようやく認識した後にやってくるのは、「過剰反応」である。

 これもある意味、事態を正確に把握できない以上、更なるトラブルを避けるようという、防衛機制なのであろう。
 私達の多くが必ずといっていいほど、このような過剰な予防策をとらずにいられない。
 
 しかし、それにも関わらず、私達の多くは、後世になってから、「過剰反応」をした人を非難し糾弾する。
 こうした反応を、同じ立場に立てば、私達自身がとってしまうは間違いがないにも関わらずである。

 何と言う、残酷な事実であろうか。

 このことを「私もそうである」と真正面から認めることの出来る人は、そうはいないと思う。

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 私達は、こうした出来事に、どのように過不足なく、そして冷静さを保って対応できるのであろうか。
 そして、誤認を避け、扇動する人や付和雷同する人を退けることが出来るのだろうか?
 この答えを得るのは、非常に難しい。

 過去記事:人間この信じやすきもの―迷信・誤信はどうして生まれるか

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 私達は、こうした事態に対応できるだけの、ある種の強さ、言い換えると「心の静けさ」のようなものを保つ訓練を殆どしていない。

 自分の欺瞞を知るということは、誰にとっても、なかなか難しい行為である。
 しかし、まずは、そのことを潔く認めることから始めるしかないのかもしれない。
 他人を責める前に、「自分自身がそれほど高潔な人間ではないかもしれない」ということを認めなければならないのだ。

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 「過去に類をみたことがない大事件」が起こるたびに繰り返されるのは、蚊帳の外にいる人達の、ある意味無責任な「怒りの声」である。

 怒りを感じること自体は正常な感覚である。

 しかし、それと同時に、それらの事件の渦中にある人達が、「モラルのない特別な人」ではなく、単に「自分と同じような人」であることをはっきりと認識する必要がある。
 そうでないと、恐らく、同じ立場に自分が立たされたときに、自らも間違いなく、同じ過ちを繰り返すことになるであろう。
 こうした事態に遭遇した時にこそ、私達の誰もが、内省の時間をもたなくてはならない。

 つまり、「何故、あのような愚かなことをするのだ。」と義憤を感じる以前に、我が身を振り返り、「もし自分がその場にいたら、同じようなことをするのではないか?」という疑いを持つことこそが必要な行為なのである。

 そして、その上で、客観性をもって過去の悲しい出来事を分析する。
 それを繰り返すことで、一歩一歩、「同じ過ち」を防いでいくことしか、私達が進歩する方法はないのかもしれない。

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   ジョゼ・サラマーゴ

 1922年ポルトガル生まれの、ポルトガルの国民的作家。
 まさしくヘルマン・ヘッセのように、多くの職業を転々とした後、ジャーナリストとして活動。50代半ばより文筆活動を開始するという遅咲きタイプの作家であるが、文体は鮮烈で、発想は斬新である。
 1998年ノーベル文学賞受賞。


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