ハーバード大学は学ぶための優れた世界的ブランド・ポータルになりつつある。それはマクドナルドが迫ってきているけれども、コカ・コーラに次いで世界で最も広く認められているブランドである(「勝者の代償」 より引用) 

「何を学ぶか」ではなく、「どこで学ぶか」が重要なのか?
この古くて新しい問題について、改めて考えてみたいと思う。


教育、ひいては大学の価値が「何を学ぶか」より「どこで学ぶか」
になっていることに関しては、
学問の本質に反することであるとされ、過去に多くの批判の対象になってきた。
 
しかし現実問題として、
確実な国家資格を得られる保障のある学部(例えば医歯薬系)以外の大学選択においては、卒業後は結局は大学の名前がひとり歩きをしがちである。

「名前」に付け加えて「人脈」という無形の財産を付加価値として得られるということも、多くの人々の知るところであろう。

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このような問題は実のところ、
本当に価値ある才能を有している「個人ブランド」を確立し得るような人には無関係な問題である。

そうした人々にとっては、
外付けのブランドを手に入れるために奔走するなどということは、
ある意味「瑣末で低俗な問題」であるともいえる。

そうした価値ある人々は、姑息なことは一切考えず、
真の実力を身につけることにだけ全力投球すれば良い。
そして実のところ、そうした実力の結果、
ブランド的な価値が後付で付加されてしまったりするわけである。
すなわち、「名実ともに優れた」人物の誕生である。

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しかし、
「実力はともかく、せめて付加価値を身につける」
ということは、
特別な才能のない分を穴埋めするために、
自らの価値を高めるために何かに依存しなければならない、
多くの「凡人」にとってこそ重要課題であり続けてきた。

つまり、厳しい言い方をすれば、
自らの価値の「根拠」を示さなくてはならない大多数の人間、
つまり社会の多数派である「我々」にとってこそ、
この疑問の答えを見出すことが重要であるのだ。


この問題は、
一般に考えられがちなように、
「日本固有の問題」というわけではない。

プラグマティズムの権化のような米国では、
むしろ、こうした人間の心理を理由して、システマティックに大学ブランドを確立して、商業利用という考え方すら存在する。

「名誉」を必ず「金銭」に結びつけるアメリカならではのやり方と言うことも出来よう。


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実際のところ、書店にいけば「ハーバードの」という枕詞のついたビジネス書籍の何と多いことかと思う。

それらの中には、非常に意義深いものもあれば、正直「ハーバードの」というハロー効果がなければいま一歩というものまで千差万別である。

そうしたことから、ある意味、こうした学問のスーパーブランドの名を冠した
「ハーバード・ビジネス」にカテゴライズされてしまうことは、私達の心に一抹の胡散臭さを感じさせてしまう結果となる。

つまり、「万人が認めるもの」に対しては、
揺り戻しとしてアンチ・テーゼ的な考えが、多くの人の心に芽生えてしまうのである。
つまりはブランド=あやしいもの、という心理である。

このようなアンビバレンツな心理、
つまり愛憎両方の対象になりがちなのが、
どのような業界であれスーパー・ブランドの宿命なのであろう。

ブランドが本物の黄金をかえって金メッキのように見せてしまうというわけだ。
 
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ブランドは、ある対象を他のものから識別する「記号」である。
しかし、その対象と深くコミットするためには結局は記号というのは最終的には意味をなさなくなる。

「意味をなさなくなる」と書いたが、実のところは、状況によってはそうでない場合もある。
人によっては、中身がスカスカでも、最後までブランド価値にしがみつきたいという発想を有していることもある。

そのために、
「ブランド力のある人物(つまりは広告塔)」を前面に押し出し、
実務を実力のある人間で固めるというやり方は、多くの組織で取り入れられ続けている

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ファッション業界のような「モノ」の介在する業界なら、
かえってその「モノ」の品質を目で見たり手にとって評価することが出来る。つまりは誰でもブランドの真価をある程度は自分で確認することが出来る。

「教育」「医療」のようなある意味「無形の」サービスであるからこそ、人々はその価値を自分の五感で確認することが出来ない。

つまりは、これらのモノを介在しない形にならないサービスほど、より強力なブランド価値が形成されやすい運命にあるのは当然といえば当然であるのかもしれない。
 
「実力」「学力」といった形にならないものは、目に見えないからである。
そうしたものほど、「ネームタグ」という、ある意味「モノを買う」ことに近い、確かなものを購入したい…という心理が働くものなのだろう。

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ところで、人生は何かを学ぶこと考えること以外に、
誰かと信頼関係を結んだり、人を愛したりといった、形にならない価値ある出来事で豊かになり続けるものだ。

こうしたものを「手に入れる」ためには、
「ブランド的価値」などといった分かりやすさとは無縁の価値観を身につけていることが必要である。

そして、私達の心を満たし、最終的に深い充足感を与えてくれるのは、
こうした「ブランド的価値観」とは人生の評価基準なのだ

こうした個人的な幸福を得るためには、実のところは、
ありとあらゆる既成の価値観に捉われないことが、
ある意味大切であったりする。

つまりは、「他人の尺度」で物事を捉えないということが必要なのだ。

これは何も、常識を破ったり、破天荒に生きろということではない。
ひたすら「自分が何を求めているのか」をしっかり見つめるということが大切だということだ。

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「教育」というのは、本来は、
そうした無形の価値観、確固とした判断力を身につけるために存在しているという面もある。
 

教育で得られるものは、大雑把にいって、
「ブランド価値」
「知識・情報(ある意味、表層的なもの)」
「真の価値観・判断力」
の三つがあるだろう。

この中で、本当に一生を通じて自分を支えてくれるものは最後のひとつ、
「真の価値観・判断力」
であろう。
これは、誰かに教えられるだけではなく、多くの出会いと経験によって形成される。

これはある意味、あらゆるブランド的価値観と対極の存在である。

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ここで最後に、回文(パリンドローム)のような堂々巡りの議論を、
あえて投げかけてみたい。 

「多くの出会いと経験」を教育に求めるとしたら、それはどのような場であろうか?

「教育ブランド」は、結局は、そうした価値ある人物に出会える、と多くの人が認めたことにより確立されているのだ…。

それを端的に表現した言葉こそが「人脈」である。

こうしてアイロニックな議論を展開していけばいくほど、
「学問の場とは何か?」ということが分からなくなってしまうというわけなのである。


勝者の代償―ニューエコノミーの深淵と未来

 複数のテーマをもつこの書籍の内容のうち、今回は「学問ブランド」というテーマだけを取り上げてみました。
 
 話は変わりますが、この本はある方に勧めていただきました。
 最近、自分で手に取った本より、他の方に勧めていただいた本の方に、
 自分のためになる書籍が多いような気がします。

 つまりは、「自分の価値観・判断力」より「他人の視点」を取り入れることが、発想の幅を拡げるということなのでしょう。

 「自分好み」ではない書籍、映画、エンターティメント、ひいては行動パターンの中に「現在の自分が必要とする事柄」が潜んでいるかもしれません。


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