相手によって心地よいこと、嬉しいこと、
つまり
「良いニュース」
を伝えるのは楽しい。
自分自身も心躍るものだし、
相手の喜ぶ顔を想像するのも楽しみである。

ところが、もちろんであるが、
「悪いニュース」
を伝える時の気分というのは、その正反対である。

余程、サディスティックな性格の人でない限り、
誰かを明らかに悲しませたり不快にさせたりする事実を告げるのは
憂鬱であるし、気が重い。

それに、往々にして
「悪いニュース」を伝える役割をする人とというのは、
その悪い出来事の原因が自分でなくても、
往々にして憎まれ役になってしまうものだ。
誰だって人から嫌われたくない心理がどこかにあるものだから、
これはやはり辛いものだろう。

「できれば、言わずに済ませたい。」
というのがごく普通の感情であると思われる

「そうした悪いニュースの伝達者」
の役割を果たさなくてはならなくなる可能性は、
誰の身にもありえる。
例え、「死の大天使」でなくても…。



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こうしたことを日常的に行なっている職業というものがある。

子供の成績や素行が悪いと親に伝えなくてはいけない「教師」
ある日突然前触れもなく、
相手が重大な病に冒されていることを告げなくてはいけない「医師」

そうした状況で、こうした事実を告げられた相手は、
大抵の場合、まず憎しみをその「告知者」に向ける。
その辺りの、悪いニュースを受容する過程での心理的葛藤に関しては、
E・キューブラー・ロス博士の
死ぬ瞬間―死とその過程について

に詳しい。

この名著にある通り、
人間は必ず、こうしたニュースを聞いた後、
それを告げた相手に対して腹立たしい感情を抱くものである。
つまり、怒りの原因が自分に衝撃を与えた悪いニュースそのものであるというより、
それを告げた相手にあると考えたほうが、心理的に楽なのである。

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その結果、
こうした到底受け入れがたいことを相手に告げることを
成業にしている職業の人の中には、
そうした「激しい憎悪」から心をプロテクトするために、
心に鎧を着てしまい、感情が鈍麻してしまっているケースが多々見受けられる。

その理由は勿論、
「そうでなくてはやっていけない。」
からだ。
そうした職業においては、
一々、相手の強い感情に自分まで揺り動かされていたら、
「心」がもたなくなってしまうからである。

しかし、
「悪いニュース」
にある意味慣れきってしまい、
職業的・機械的にしかそうしたものを捉えることができなくなってしまった時、
つまり「共感性」が欠如してしまうと、少々まずい事態に陥る。

その「無神経さ」が、
悪いニュースを受け止める側の心を深く傷つけてしまうのである。

こうした職業の人の中には
往々にしたどこか冷たいというか突き放したような印象を与える
話し方が身に付いてしまっている人が多々見受けられる。
自分の「心」を守るためとはいえ、
望ましくない態度である。


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ところで、
こうした「悪いニュース」を告げなくてはいけない状況というのは、
こうした職業の人だけには限らず、誰にでもあり得る。

「愛が冷めた相手に一方的に別れを切り出さなくてはいけない」
などの個人的な場面から、
「ビジネスのオファーを断る」
などの、公的な場面まで、
多くの人がこうした状況にさらされている。

そうした中で、
良い人間関係を築き上げ、幸福な人生を送るためには、
実のところは、
こうした
「悪いニュース」
をいかにうまく相手に伝え、
受容してもらうかが鍵となっていると言っても過言ではない。

「良いニュース」
「耳ざわりの良い言葉」
だけを伝えながら人生を送るわけにはいかないからである。

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そうした「正念場」をどう乗り切るか?

そのためには、率直に言って、
単なる表面上の言葉のテクニックではなく、
自分自身の全人格、人生観が問われているという部分が大であると思う。
つまり、にじみ出るものが大切であるというわけだ。

こうしたニュースが相手に伝わる過程は、
個々の単語や内容そのものだけではなく、
会話全体の自然の流れの中で行なわれるものであり、
その中で、事実以上に得体のしれない「雰囲気」というのが重要であったりする。

そして、万が一相手にうまく真実が伝わらない時は、
やみくもに事実を押し付けるのではなく、
そうした流れの中で相手の感情を汲み取りながら、
言葉の選択や態度を変化させ、
バリエーションをつけながら修正していくべきであろう。

「事実」
だけを伝えようと固執する態度は、
こうした状況には不適切であり、
ある種の臨機応変さが必要とされるのである。

何もそれは、いい加減に行き当たりばったりに
ころころと態度を変化させよ、というわけではない。
相手の感情や、受容のレベルを、
ひとつひとつ確認しながら、
慎重にことを進めなくてはいけないという意味である。

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そのために必要な最大のスキルは、
「思いやり」
という単語に集約されるのかもしれないと思う今日この頃である。

実のところは、
悪いニュースを告知されたことによる衝撃は、
その内容が深刻であればあるほど、
どのように注意深くそれが告げられたとしても、
緩和することが困難である。

「思いやり」
とは端的にいえば、
そうした「衝撃」が相手に加わっている事実があるということを、
きちんと認識して行動すること、
つまりは
「想像力」
ということに尽きるのではないかと思う。

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想像力が欠けた関係には、どのような相互理解も生まれない。
そして、
「立場の異なった人の心を想像する力」
というのは、
「同質性」を基盤とする均質な集団で生きているこの国の現代人に、
もっとも欠けているスキルであるような気がしてならない。



 医療現場の会話分析―悪いニュースをどう伝えるか
  

日常的に、
「病気」という悪いニュースを相手に伝えることで成り立っている医療現場。

本書においては、その医療現場を例にとり、自然な会話表現における、
悪いニュースが伝わるときの流れについての分析が行なわれている。

その手法は、以前に紹介した書籍、エスノメソドロジー―社会学的思考の解体の流れを汲むものであり、日常の会話の流れを科学するという手法がとられている。

医療現場のみならず、
「悪いニュース」を伝えなければいけないビジネスパーソンや、
それ以外の全ての人に何らかの示唆を与えることのできる著書だと思う。

ただし、
文章(訳文)全体がやや読みにくく、
全体の論理の構築も理解しづらい著書であるのが難点だということを
付け加えさせていただく。


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