美しさの基準をすべて達成しても、美しいと決定するのは他者である。
(”美貌の陥穽 セクシュアリティーのエスノメソドロジー” より引用)


しばしばありがちなことだが、
異性の友人から、
「すごく可愛い(綺麗な、素敵な、かっこいい)人だよ。」
と聞いていたパートナーと対面させていただいたとき、
率直にいって、
同じ感想を抱くことが出来ないことが多いという話をしばしば耳にする。


これらの行き違いは、
しばしば「好みの問題」として片付けられることが多い。
確かにそういう側面もあるだろう。

しかし、決してそれだけではなく、
この感覚のずれというのは、
絶対評価と相対評価に基づく「すれ違い」という側面もなきにしもあらずである。

愛する者と、そうでない者では
対象に対する価値観が違って当然なのである。


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対面する側は、
あくまでも「形態学的な美の基準」に基づいて、
その人物を評価している。
決して、内面的な部分や思い入れに基づいてその言葉を捉えているわけではない。

これは、ちょっと飛躍するが、
「お母さんにとって、自分の赤ちゃんは全部可愛い」
という感性に似ている部分があるのかもしれない。

決して、パートナーを紹介している人物の異性の趣味が特別に悪いわけではなく、
彼(女)の愛という基準に基づいた相対的価値観が
そのように感じさせているというだけのことである。

だから、こうした感覚の行き違いが起こるということは、
実はとても幸福で微笑ましい話だ。

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逆に言うと、
いつまでもパートナーの容姿に不満を抱いている場合は、
実のところは
「容姿」
ではなく
「内面」
に不満があることを露呈しているのかもしれない。


このことに関して、本書の著者は
「自己と他者との関係を通じて、『美しさ』は自己の内面を介在させている」
(美貌の陥穽 セクシュアリティーのエスノメソドロジー より引用)

と定義付けている。

愛において、美は相対的なものである。

別の言い方をすれば、
実のところは、愛においては美しさはさほど意味を成さないものである。
外見に魅かれているのか、内面に魅かれているのか?
などというありがちな議論が無意味であるのはこの点にあるだろう。

実のところは、
「美しい」
と感じた瞬間から愛が始まっているのである。

そして、
「美しい」
と思い続けているうちは、まだ愛している可能性があるのかもしれない。
形態学的な美がそこに存在しても、
愛が消えたとたん、
それは
「魅力」
として認識されなくなるからである。

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こうしたことは
「愛と美貌」
といったテーマ以外にも、
普遍的に通用する。

恐らく、
「相対的価値観」
「絶対的価値観」
のどちらについて語っているのかのずれが、
人と人との相互理解の大きな妨げになっていることは間違いがない。

「だってそう思うんだもん」
と主観的に語っている人と
「○○とはこうである」
と客観的に語っている人の間で会話が噛み合わないのは、
火をみるより明らかであろう。

議論を重ねる前に、
まずは、
そうした価値観の相違がないかどうか
お互いの立ち位置を確認することは、極めて重要と思われる。


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そして自らが、
自分の考え方の癖が形成した
「相対的価値観」
による思考の泥沼に陥ってしまったとき、
もう一度冷静に
「絶対的価値観」
とは何かを思い出してみる必要があるだろう。


その逆に、
あまりにも世に流布する
「絶対的価値観」
にこだわりすぎて、
自分らしい人生や考えを見失いそうになった時は、
自分の内面からあふれる
「相対的価値観」
に従って行動するのも悪くはないと思う。

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客観性と主観性、
どちらが上でどちらが下ということはない。


美貌の陥穽―セクシュアリティーのエスノメソドロジー
  

異性間の会話は、どのように成立していくか?
「会話の順番取りシステム」
「沈黙」
といった実際の会話の内容そのもの以外の「流れ」が、
親密性を規定していくその過程を、
エスノメソドロジー的手法で分析しているのが本書である。

実際のところ、それらの分析によると、
男女間の会話殆どは、理論の構築はおろか
相互理解すら目的にしていないことすらあるように受け取ることができる。

それに賛同するかしないかは別として、
自然な会話というものが予測外の展開を見せ、
予測外の方向に人の心を導いていくということを理解するうえで、
何かの一助になる一冊であることは間違いがない。

しかし、
私にとってはいまだに
「エスノメソドロジー的手法による自然な会話の分析」
という概念は、率直に言ってかなり理解しずらい側面が多い。

何故なら、
より能動的で主体的な会話というのが存在するような気がしてならないからだ。

会話には、「流れ」が重要であるということは充分理解出来る。
しかし、少々、会話の「流れ」が狂ったとしても、
結局は本質的な「思い」がそれを凌駕するような気がしないでもない。


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