オルガの香水はオルガがつけなければ、何ということもありません。
(マリア=グリーペ作 “それぞれの世界へ”より引用)


誰かと同じ香りを身にまとうことは出来ない。

「誰かの香りが気に入ったから」
という理由で同じものを使ったとしても、
それぞれの個人によって、
最終的には全く異なった香りに変化してしまう。

香りは人真似が出来ない。

香りが化学物質である以上、
個人の発する化学物質と相まって
複雑な反応を起こすことはやむを得ないことであるのだ。

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使用した香り自体は、
外部から取り入れたものであり、誰にとっても同じ存在である。

しかし、
それを使用した結果、どのように変化するかは極めて個人に特有のものなのだ。

誰かにとって素晴らしい香りであっても、
別の人には全くふさわしくないものになり得る理由もこのあたりにある。

そうした意味では、
香水のボトルからではなく、
「大切な人」
というフィルターを通した香りが一番素晴らしい。


 あたしは、はっと気付きました。
 香水って、それ自体はたいしたことはないのです。
 ぴったりと似合う人がつけたときに、花開くものなのです。
    (マリア=グリーペ作 “それぞれの世界へ”より引用)


香りだけではない。
知識や情報などの全てのものに関して同じことがいえる。
外側から取り入れたものは、
内側から滲み出たものによって、
個別的に変化してしまう。


それぞれの世界へ



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「個性」を形成する要素に関しては
その人固有のものであるかそうでないかは、それほど重要ではない。

例え外部から取り入れたものであっても
個人というフィルターを通して反応することにより、
全く違ったものになってしまうのだ。

その人らしさというものは、
本来持ち合わせている
「内側から滲み出た個性」
だけではなく、
「外側から付け加えられたものの自然な変化」
によっても形成されているのだ。

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そして、
いまある「個性」というものそのものが、
本来持ち合わせていたものと、
外から取り入れたものが、
何度も複雑な反応を繰り返して形成されたものであるのだ。

そう考えいてくと、
何が本来の「自分らしさ」で、
何が後から得たものであるかの区別をつけることすら難しい。

「遺伝子と教育」
「氏か育ちか」
などという議論が非常に困難であるのは、この点にあると思う。

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同じ教育を与えても、
決してそれぞれの個人の人生は同じものにはならない。

同じように美しい衣類を身にまとっても、
ハイセンスになる人もいればならない人もいる。

違った知識や情報が違った意味をもつだけではなく、
同じ知識や情報も、違う意味をもつのだ。

自分に内在するものが個別的であるように、
外から取り入れたものでさえ、
最終的には個別的なものに変化する。

「何を知ったか、どのような出来事を経験したのか」
が問題なのではなく、
「自分というフィルターをどのように通すことが出来たのか」
が重要であるのだ。

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そう考えていくと、
やみくもに知識や情報の断片を取り入れる前に、
「自分というフィルター」
をどのように形成するかがいかに大切であるかが理解出来るだろう。

教育にとって、まず土台となるべきなのは、
それが形成されているかどうかであろう。

「何を取り入れるのか」
を考える前に、
「取り入れたものを自分らしく変化させる力」
こそが重要なのである。


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それぞれの世界へ


固い絆で結ばれた家族であろうと、
どのように愛し合っている恋人同士であろうと、
何らかの理由で不協和音をきたすことはある。

例え、そうしたことがなくとも、
お互いの成長のためという建設的な理由に基づいて、
別々の道を歩まなくてはいけないことがある。

そうしたときに、
「共に過ごす」という形式にこだわることが、
更なる崩壊を招くことがある。

つまりは物理的に一緒にいるということに執着することによって、
かえって精神的なつながりが薄れてしまうということは、
しばしばありがちなことだ。

そうした意味では、
状況によっては、
「別離」は生涯に渡って共に同じ道程を歩むための、
最初の一歩であることすらある。

いったん離れることにより、
相手のかけがえのなさを理解し、
精神的な距離が縮まることすらあるのだ。

もちろん、大切な人との別れというのは、
誰にとっても中々受け入れ難い事実である。

しかし、
「本質的な愛」が存在しているのなら、
「別れ」は「永遠の絆」の始まりであることすらある。

人間は、
内部から起こった「変化」と、
それに伴う感情の「変質」を封印して生きていくことは出来ないからだ。


エレベーターで4階へ


自分の部屋があったら

に続く三部作の最終編である本書は、

1930年代のスウェーデンを舞台に、
思春期の入り口にさしかかった少女ロッテンの成長を通じて、
ばらばらのピースに別れてしまった、
複雑なパズルのような家族の崩壊と再生の物語を描いている。

「自我の形成」は、「他人との関係性の拒否」とイコールではない。
誰かとより強固で深い絆を築くことが出来る能力の第一歩である。

ところが、
相手を所有し支配することが「愛」となった時、
それは「その人らしさ」の存在の拒絶につながる。

「相手を本当に受け入れる」
つまりは、
大切な誰かを、
「その人らしい香りを身にまとうことが出来るような人」
として成長させることが出来るかどうか?

そうしたことの意味を考えることが出来る作品であると思われる。


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