リアリティーには
 確固として存在する、客観的な外部のリアリティーと、
 主観的な内部のリアリティーとの二種類がある 
“脳はいかにして<神>を見るかより引用“

 

        メタファーとしての神、存在としての神

「神は死んだ」というニーチェの言葉に対し、
“ニーチェは死んだ −神−”
という作者不詳の落書きがあるのは、有名な話である。

神を否定した人物はこの世を去るが、
「神とは何か?」
という疑問は、永遠にそこに存在し続けている。


「神」の存在を科学や哲学が否定するたびに、
逆に、否応なしによりはっきりとその存在が浮き彫りになり、
結局は「神」の存在は人類の根幹に関わるテーマとなっている。


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ところで、
「神」が私達に命じていることのうち、
もっとも難しいことは
「人を愛せよ」
ということであろう。

本来、「愛」とは、
湧き水のように理由もなく発生し、
野に咲く花のように、自然にそこに存在するものだ。

誰かに命じられて、何かを愛することは困難である。

自分を憎む敵を愛することが困難というだけではない。

昨日まで愛し続けてきた人を、
今日同じように愛することですら、
私達にとっては相当に難しいことなのである。


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そうした感情の流れの変化に棹差して、
「愛」
という感情を維持するためには、
「努力」
などという生半可なものでは到底無理であり、
「人間性」
というもっと大きなものが問われているのである。

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「論理的思考」
による
「了解」や「納得」は、
誰かの求めに応じて努力すれば、
何とか可能であるが、
「愛する」
ことを要求され、それに応じることは困難である。

「思考」
の枠組みを改変することは、ある程度は努力により何とかなるものだが、
「感情」
の枠組みを根底から作り変えるということは、容易に得られることではない。

感情を変えることが不可能というわけではないが、
小手先の努力というよりは、
人生全体の重みと時間によってしか変わっていかないものである。

もしくは、
「心から自分が変わることが出来る」
エポックメーキングな出来事や人物と遭遇することがあれば、
一瞬にして変化することが可能かもしれない。

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愛することを期待されることも、
愛することを否定されることも、
その両者は同じくらい、
自らの意志でどうにもならないのが普通であろう。

「愛」を生じさせるのは難しいが、
「愛」を抑えることも同じくらい困難である。

つまりは、ある意味では、
西洋的な神というものを端的に語ると、
「人間にとってもっとも利己的な感情をコントロールせよ」
と命じている存在がこの世にいる、ということになる

そう考えていくと、
このようなもっとも困難なことを要求する存在が、
「崇高なものでないはずがない」
という考え方は、確かに可能なのである。

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もちろん、
「宗教」
というものが、
あくまでこのようにピュアな存在というであるというわけではない。

「コンセプト」と「現実」は、
多くの物事で異なってしまうが、宗教もその例外ではない。

人々がもっとも大切にしている
「感情の核」
となる存在である宗教を、
政治的に利用しようとする人が出現することは、
歴史的に避けられないものであり続けた。

宗教を否定する人の多くが、
こうした宗教の暗黒面にスポットをあてているのは無理からぬことだ。

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また、
宗教は、近代社会以降の長い間
「科学」という存在のアンチテーゼとして捉えられ続けてきた。

そうなると逆に、
「宗教とは、『科学』で説明できない曖昧な物事に対する不安を解消する手段」
であると考える人が出てきてもおかしくはない。

つまりは、宗教とは何か 
「姑息的な手段」
というふうに解釈するわけである。

「風邪のウィルスをやっつける薬はないが、
発熱や喉の痛みや咳を抑える風邪薬はある」
その風邪薬にあたるものが、
「宗教」
というわけである。

 宇宙は確かに奇妙である。
 けれども合理的な精神をもつわれわれ一般人にとっては、
 神秘家たちの言葉の方が、はるかに奇妙で不可解だ。
        “脳はいかにして<神>を見るかより引用”
 

この言葉を借りるまでもなく、
そうした「風邪薬」のような存在としてだけみなされている
対症療法のような、
「宗教」というものに対し、
どこかチープな感覚を抱いてしまう人が増えていくのは、
無理からぬことなのかもしれない。

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恐らく、宗教が人類と共に存在し続けてきたのは、
そうした
「目的」
「手段」
ということを超えた何かがあったためだあるのだろうが、
その側面は多くの場合忘れ去られてしまっている。

脳はいかにして“神”を見るか―宗教体験のブレイン・サイエンス


神秘体験は、心の病なのか?
フロイト派は神秘体験は退行性、幼児性の神経症にあると解釈している。
つまりは「自己」と「非自己」の明確な境界線を、いったん取り外し、
幼児と同じ全能感を味わいたい、という願望だと解釈しているわけである。

そうした心理学的分析以外に、
「認知」
の問題として神を捉えようというやり方もある。
脳の抽象オペレーターは、左脳の頭頂葉の活動から生じる。
科学理論、哲学的仮定、政治的理念などと同様、
「信仰」とは、個々の人生の体験や知覚を何らかの形で統合したものであるのか?

神経生物学的な認知の問題として「神」を捉えることで、
むしろ、
「宗教」を妖しい神秘体験から、
「論理的」
「崇高」
な科学の高みに引き上げることができるという考え方をする人もいるだろう。
もし、科学が崇高であるのなら、という話であるが…。

心理学、神経生物学、哲学、歴史、
そうしたあらゆる角度から、
私達人間が「神」をどう捉え、
どのように「神」と共存してきたか?
その命題を検証しているのが本書である。