本当のユーモアとは、
  「水面」と「底」のバランスを自由自在に操れるものなのです。
       (ヨハネス・ミュレヘーヴェ著 “アンデルセンの塩” より引用)


人の言葉を何もかも、
額面どおりに受け止める人はいないだろう。
話し言葉にしろ、書き言葉にしろ、
すべての言語表現は多くの隠喩や反語的表現を含んでいる多義的な存在である。

良い意味でも、悪い意味でも、
私達は「僅かな言葉」を手がかりにして、
その奥底に秘められた意味を解釈したり、
その逆に、
重ねられた多くの言葉の中から、
まるで藁の中から一本の針を探すように、
たったひとつの真実を見つけようと努力したりしている。

アンデルセン評論の第一人者、ヨハネス・ミュレヘーヴェは、
著書「アンデルセンの塩」の中で、
アンデルセンのユーモアを
 
 容易に見分けられるものではなく、
 構想、語調、シンボル、そして行動様式や確信の中にある
      (ヨハネス・ミュレヘーヴェ著 “アンデルセンの塩” より引用)


ものであると表現している。

これは、まさしく、
私達の現実の世界に起こっている様々な出来事と同様であろう。

私達は、
相手の発する言葉、そして振る舞いの中から、
水底に浮かんだり沈んだりする一片の真実を見つけようと、
躍起になって生きている存在なのだともいえる。

その真実を見つけようとする力こそが
一言で言うと、
「想像力」
なのであろう
 

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 私たちは、想像力なしにお互いを理解することはできないでしょう。
 空想や感情なしに他人と生きていくことも難しいでしょう。
     (ヨハネス・ミュレヘーヴェ著 “アンデルセンの塩” より引用)


ただ単純に、
情報や知識の断片を積み重ねることが、
この「想像力」を育てるかどうかについて考えてみようと思う。

「情報や知識」
は現代の
「力」
と思われている。
そして、「力」を得たと思い込んだとき、
人間の心は自惚れで満たされることになる。

そして、
その高慢な自惚れがある閾値を越えたとき、
人間の心から、他者を理解する
「想像力」
は消し去られてしまうのだ。

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また、
バーチャルで地に足がついていない、
単なる
「情報」
は、私達の心にある種の
「幻想」
を生み出す。

その幻想は、
「心の中に生じるもの」という意味では
「想像力」
と同様であるが、似て非なるものであろう。

 もし、想像力を誤って養ってしまうと、
 私達は幻想のなかでのみ生きることになってしまいます。
 そして、幻想の中での生活が長くなればなるほど、
 今度は自惚れに陥ってしまいます。
      (ヨハネス・ミュレヘーヴェ著 “アンデルセンの塩” より引用)


これは、
ネット社会に生きる
私達の人生のありかたを端的に表している。

「情報」と「経験」の違いが混同されがちなのが現代社会の特徴である。

その中で、
「自分の内部に何かを取り込むこと」
ということは、
単純に何かを「知る」ことであると誤解されがちである。

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それに付け加えるならば、
「自惚れ」
というのは
「自己不全感」
と表裏一体の存在である。

自らの存在に不安を感じる心理が、
過剰な自惚れの素地になっていることは間違いがない。

ネットで生きる私達は、
ネットを離れてリアルの世界に戻った時ですら、
この、自己全能感という
「幻想」
に捉われたままになってしまう潜在的危険を秘めた存在なのだ。

この自己全能感は、
真の実力に裏付けられたものではなく、
現実からの逃走、現実の拒否によって生じたものであるので、
「幻想」
を維持するためには、
現実の世界に戻らずに生きていくしかなくなってしまうのである。

「ニート」といった、
「社会に真の意味で参加することを拒否する心理」
の問題の本質も、恐らくこの辺りにあるかもしれないのだ。

人生の重さも軽さもない、
フラットな夢の中で淡々と生きることが、
本当に幸せであるはずはないのであろうが…。

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人は、軽い世界と重い世界の二つをもっています。
 (ヨハネス・ミュレヘーヴェ著 “アンデルセンの塩” より引用)


私達にとって、
「人生で大きな出来事である」
と思っていたことが、
後には大したことはなかったり、
ほんの些細な事柄が、
大きな意味をもったりすることはしばしばあることだ。

つまりは、
「辛さ」
「苦しみ」
が軽い世界の入り口であることもあり、
ささいな出来事が、
その後に続く
重い世界へのトリガーであることもある。

バーチャルな世界に散りばめられた言葉が、
どのような深刻な出来事であろうと、
私達の人生をすり抜けていくのとは、わけが違うのである。

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人間にとって
「素直さ」
はある意味とても重要である。
何もかもを歪曲して捉える思考回路というのは、
ある意味不幸なことだ。

しかし、
表面の浮かんだ言葉、出来事を
そのままの意味でしか解釈出来ないというのも、
ある意味危険なことであるし、
それに人としてとても残念なことである。

何故ならそれは、
「精神的に豊かな人生」
というのを放棄することにつながるからである。


そうした重さと軽さ、
言葉に隠された深い意味、
そうしたものを理解することは、
それは現実の世界の人との出会いや経験でしか、
ある意味、得られないものである。

物事を多層的に理解する力は、
素直さと相反しないし、
それはそれでとても重要な能力なのである。

それが端的にいうと、
「他者とコミュニユケートする力」
の本質であり、
私達の人生を変える、
本当の意味での
「力」
だからである。

アンデルセンの塩―物語に隠されたユーモアとは


ヨハネス・ミュレヘーヴェ 
1937年デンマーク、コペンハーゲン生まれ。
神学者であり、
アンデルセン評論の第一人者であるヨハネス・ミュレヘーヴェは
「デンマークで最も愛される作家」の称号を得ている。

「アンデルセンの塩」は、アンデルセン童話に潜む隠喩や、
隠されたユーモアに焦点をあてた人間理解にあふれた名著である。

アンデルセンの日記研究などの珍しい文章も多く含まれ、
非常に興味深い一冊である。

ミュレヘーヴェによると、
アンデルセンの文学は
「子供への読み聞かせ」
を前提にして描かれたものだという。
つまり、彼の作品が、
「親から子への語り継がれる」
ことがアンデルセンの願いであったということだ。

語られる言葉と、書かれた言葉は違う。

バーチャルな世界で過ごす私達にとって、
次世代の人々に、
直接的に
「語り言葉」
で何かを伝えるということは、
今まで以上に、
あえて強く意識していかなければならない。

そうでないと、
そうした種類の言語コミュニュケーションは
日々失われる一方であるのかもしれないからだ。

目の前の人ときちんと向き合い、語り合う、
そして言葉に秘められた様々な意味を想像しあう。

そうした能力を開発することも、
「教育」
の大きな意義であるのかもしれない。