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わが悲しき娼婦たちの思い出
G・ガルシア=マルケス
新潮社 木村 榮一訳
わが悲しき娼婦たちの思い出 (Obra de Garc〓a M〓rquez (2004))
わが悲しき娼婦たちの思い出 (Obra de Garc〓a M〓rquez (2004))
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「ビジネス書」という書籍のジャンルがある。
ありとあらゆるジャンルの知識をビジネス向けに編纂し、役に立つように分かりやすくまとめた書物だ。
一冊読み終わると、必ず、「何か役に立つ」ノイエスというかチップスというかを身につけることが出来るということを売り物にしている。
「おいしいブラウニーの焼き方」
「上手なプラモデルの組み立て方」
という類の書物と本質的には同じで、読み終わったら、ビジネスの進め方、やり方が明確になることを目的にしている。
要するに、ざっくり言うと、一種のビジネスという目的を対象にしたハウツー本である。
キーワードの多くは
「ロジカル」「効率的」「クリア」「シンプル」など。

読みやすさも特徴で、大体ハードカバーにしろ新書にしろ、一時間位の通勤時間で一冊読み終わるボリューム感になっている(何か出版社の方で、そうなるようにあらかじめ規約でも定めているのだろうか)。

さて、前振りが長くなったが、ようやく、ガルシア=マルケスの話である。
私がガルシア=マルケスを読んだのは、学生時代に「百年の孤独百年の孤独 (Obra de Garc〓a M〓rquez (1967))
」を読んで以来である。
大体において、文学というのは、どっぷりとつかれない時に読んでも良さが分からない。
多くのせわしない現代人が文学から遠ざかりがちなのは、文学の世界に入り込む精神的余裕がないことと、もうひとつは、文学を読んでも「結果」が得られないせいかもしれない。

何故、長い前振りに「ビジネス書」の話を出したか?ということには理由がある。
長い間、「ビジネス書」の書棚を見るたびに感じていた素朴な疑問を抱いていたからだ。
疑問その1:そもそも「読書」というのはある一冊の本を読んだからといってすぐに明確な「答え」や「結果」というものが得られるものなのだろうか?それは文学に限らず経済学書や法律書でも同じなのではないだろうか?

疑問その2:「ビジネス書」は対象を主に「ビジネスパーソン」に絞り込んだ書籍である。
そもそも、昔から、書物というのは、誰が読んでも普遍的に価値を感じることが出来るものではないのだろうか?優れた書物は子供から老人まで、職業があろうとなかろうとどんな職業であろうと人の心を打つ。ある特定の層の琴線しか捉えない書物というのは、結局は人の心の核となる部分を形成することには役に立たないのではないか?注:ただし、おいしいブラウニーを焼くのにお菓子作りの本は役に立つのと同じ意味で役に立つにしても、だ。

疑問その3:迷えるビジネスパーソンが、すぐに答えをみつけようと、何冊もビジネス本を買っても、その時は何となく分かったような気がしても、本質的な成長にはつながらないのではないか?

ビジネス書籍を本来の書物ではなく、大人向けの「雑誌」と同じ種類のものと考えれば、
これらのことは疑問を抱く必要はない。大量に生み出され、消費され、やがて情報として古くなり消えていく。
人々はネット検索で切り貼りの知識を得ることに慣れ親しみ、望めばすぐに問題の答えを得ることが出来ると信じている。それがこうした書物の流行の理由なのだろう。

ガルシア=マルケスの小説は、そうした書物の対極にある書物だ。
読んだからといって、まったく役に立たない。しかも、荒唐無稽である。

「わが悲しき娼婦たちの思い出」はその中でも、特に役に立たない度ナンバーワンの小説だ。この本を人生指南と捉えたら、「この男のようにはならないように気をつけよう」という反面教師にするという意味で役に立たせるしかない。

この小説は、九十歳にして、自分の人生を破壊している(ようにしか他人からは思うことが出来ない)男の物語である。破壊の発端は十四歳(!)の少女への恋愛である。このプロットは川端康成の「みずうみ」から想を得ており、ある意味、陳腐化した(おそらく故意に)ものであるが、そのことはこの小説の価値に何の影響もない。

そもそも、この小説にストーリーというのは殆ど意味がない。
これは主人公が恋愛の力を借りて、九十歳にして自分の人生を一度破壊し、再構築する物語である。破壊そのものに意味があるわけだから、他人からみて無価値であり、愚かに見えること行為やエピソードの全てが、主人公にとっては再生への入り口なわけである。
主人公の九十歳という年齢を考えると、それはあたかも生きているうちに死と新たな誕生を迎えた輪廻転生の物語のようにも思える。

この物語の中に、
主人公の男が、老いた高慢な猫を飼い始めるエピソードが出てくる。
その猫は主人公の家の中の価値あるものを滅茶苦茶に壊し、汚し、平然としており、男に懐かない。主人公はこの猫を飼いたくて飼い始めたわけではない。偶然のいきさつで飼うことに至っただけだ。しかし、主人公はこの猫を追い出すでもなく、何とか折り合いをつけながら飼い続ける。

人生は、飼うつもりもない猫を偶然飼い始め、何とかなだめすかしながら、折り合いをつけていくような作業の連続である。
人は自分の人生に偶然入り込んだ「邪魔者」を追い払うことは出来ない。その時、何のロジックも役に立たず、辟易としながら、その新参者と折り合いをつけるということの繰り返しである。

そうした中で、恐らく、「ビジネス書」で得たノウハウは、あまり役に立たない。事実、この主人公も、この一癖ある猫を飼うにあたって、「猫の飼い方」を詳細に学び、対処しようとしている。しかし、得られたのは「えさのやり方」などのごく基本的な部分だけで、決して書籍で得た知識で困った猫を手なづけることは出来ないのだ。

現代人は、あたかも自分の人生には「偶然」ということはないように振る舞い、振る舞うだけでなく、心から信じ込むにいたっている。

私のつたない経験からいっても、「これは役に立つ」と思って得たわけでもない、興味の赴くままに学んだ子供の頃や思春期の頃の知識や興味、読んだ書物などが、何年か経ってから偶然役に立ったということも何度もある。しかし、それが一生役に立たなかったとしても、夢中になった体験を悔いることはないし、損をしたような気持ちになることはないであろう。

本を読むときでも人と付き合うときでも、「これ(この人)は役に立つか?」「すぐに使えるか?」などと考えていたら、ひどく薄っぺらな人間になってしまう。

インターネットの検索結果で上位にきた知識の断片を綺麗に切り貼りしただけで、答えを得たような気持ちになりがちな現代人にとって、本当に必要なのは、知識のコラージュのような書物ではない。
自分自身のストーリーを自分で組み立てるには、答えのない書物を多く読み、
すぐに価値の出ないことに夢中になるしかないのかもしれない。