荒唐無稽で、あり得ない、しかしリアルさのある恋物語。
コレラの時代の愛 (Obra de Garc〓a M〓rquez (1985))
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またまたガルシア=マルケスの小説の話です。
「コレラ時代の愛」は、ある男が青年期に愛した女性を五十余年かけて思い続ける物語である。
フィツィジェラルドの
グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)
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「グレート・ギャツビー」を思わせるモチーフの小説。
陳腐なモチーフを独特な味付けで唯一無二のものにしているという点が、
ガルシア=マルケスらしい。
主人公の愛の対象となるガルシア=マルケスの小説中の女性は、
お尻にできものをつくったり、
夫とけんかをしたり、買い物中毒になったりする、
年齢を重ねて老婦人になれば加齢臭がしたり、
「あるがままの女性」として描かれている。
しかも恋愛の背景が、
「コレラ」という決して美しいとはいえない感染症が蔓延している時代に設定されている。
その点が、人間が老いや病などの呪縛から逃れられないという点をいやが上でも強調し、朽ちていく肉体があってこそ、精神性が際立つという効果をもたらしている。
あまりにもリアルな表現で描かれているにも関わらず、
恋愛対象となる女性が、主人公にとって、少女時代からずっとマドンナであり続けている点が、妙に読者にとって納得がいくように描かれており、
女性が主人公にとって永遠に精神性の象徴であるという事実が、読者にとって疑問に感じられないように描かれている。
女性の神秘的なイメージは、物語の最後まで崩されない。
まるでレンブラントの絵画の光との織り成す世界のように、醜さと美しさが見事な対比を見せ、美しさだけを描くより、清浄な部分がくっきりと浮かび上がってくる。
美と醜の対比だけでなく、滑稽さと真剣さの対比も、ガルシア=マルケスらしい点だ。
実際のところ、数多の現実の中から、美しい事実だけを選び取って構成するのが恋愛の心理であることを考えると、神の視点から俯瞰的に他人の恋愛を眺めるとこういう結果になるのだろう。
同じく幻想的で観念的な恋愛を数多く描いている村上春樹とガルシア=マルケスの小説の主人公は、極めて対照的である。
村上春樹の小説の女性は、無臭であり、観念的であり、あくまで清潔であり、
ある種の精神性の「象徴」として描かれている。
(村上春樹の場合は、醜さが描かれていないからといって「薄っぺらい」というわけではなく、「チーズが牛乳の抽出物であるようなもの」と思えば良いのだろう)
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恐らく村上春樹にとって、恋愛や女性は主題ではなく、精神性を描く上での単なるモチーフであるからであろう。
ちなみに、コレラ時代の愛には、
「わが悲しき娼婦たちの思い出」
のモチーフに使われている十四歳の少女と老人の恋愛のエピソードが出てくる。
その少女の心理が、あまりにも現実とかけ離れたほど成熟している点が、
全体のリアルさから浮き上がっているのが中々興味深い。
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