「ひとたび狂犬病の症状が出たらもう何の手だてもありません」と医師は言った。陸生の苔類、辰砂、麝香、銀化水銀、紫花のルリハコベといったさまざまな処方に基づいて、狂犬病が治療可能で彼は話した。「みんなでたらめです」と彼は言った。「問題は要するに、狂犬病を発病する人としない人がいるということであって、発病しなかった人に関してそれが薬が効いたせいだと言うのは簡単なのですよ」
「愛その他の悪霊について G・ガルシア=マルケス より引用」

愛その他の悪霊について
愛その他の悪霊について
クチコミを見る
愛その他の悪霊について G・ガルシア=マルケス


ガルシア=マルケスお得意の「病」と「愛」の組み合わせ。
この物語にはそのふたつのモチーフにあわせて、「狂気」というモチーフが加わる。

感染症が蔓延する極限状況の南米の都市。
その病は、ロマンチックな病ではない。人間の排泄物や吐しゃ物にまみれた、
極限まで不衛生で、そして不治の病。
そこまでの背景は、先に紹介した、「コレラ時代の愛」コレラの時代の愛 (Obra de Garc〓a M〓rquez (1985))
コレラの時代の愛 (Obra de Garc〓a M〓rquez (1985))
クチコミを見る
と「愛その他の悪霊について」は同じである。

現代人からみれば、コレラは現代では治療可能な病であり、狂犬病は現代においてもほぼ不治の病である点だ。病のあるものは医学の進歩に伴って、後世の人間にとっては、取るに足らないものに変化する。

それは現代人の我々だけが知ることであり、
この二つの物語の登場人物にとっては、何らの意味ももたない。
現代の病の一部は、未来人にとっては、日常の脅威では確実になくなる。

人類が未だ征服していない病に対しては、最新の医学は常に、
ガルシア=マルケスが描く時代の、
「狂犬病の治療に使われた薬草」以上のものにはなり得ない。

その本質的なロジックは、いつの時代も変わることはない。

この特異な恋愛小説の主題は、実は「病」「愛」「狂気」のいずれでもない。
これらはあくまでも、人間の精神の脆弱さを際立たせるための小道具である。

この物語の中心にあるものは、「得体の知れないものへの恐怖」である。

その恐怖こそが、人間の心に差別や残酷さを生み出す元凶であり、病への恐怖という正当な理由をたてに、人々は病に侵されていない人間を病者に仕立て上げる。

「病」に侵されていると決め付けられた対象の人間は、病でないにも関わらず、ゆっくりと心身を蝕まれ、病と決め付けた側の人間の論理は、いつでも常に正当化される。
その罠から「被害者」を救い出そうとした人物も、いつの間にか被差別の側に括られ、
二度と「普通の」世界の住人に戻れなくなる。

気がついたときには、ヒッチコックの「めまい」めまい スペシャル・エディション 【-プレミアム・ベスト・コレクション-リミテッド・エディション】 [DVD]
めまい スペシャル・エディション 【-プレミアム・ベスト・コレクション-リミテッド・エディション】 [DVD]
クチコミを見る
の主人公のように、
自らが、まともであるかどうかすら、確証がもてなくなっているというわけだ。

「本当の病」というのは、いつの世にもあり、
それはその時代の科学の進歩に応じて、
最善の方法で対処されるべき事柄である。

本当に恐ろしいのは、
その科学の進歩を超えた瞬間に生じる人間の集団心理である。
つまりはつくられた病、操作された病だ。

論理的思考の限界を超える事象が起きたとき、
人間は突然、論理の破綻を補おうとするあまり、
徹頭徹尾、非論理的で残酷な行動を始める。

そうした集団心理が暴走した時、それを止める手立てはほとんどない。

「悪霊」が取り憑いている側が、差別されている排除された側の人間なのか、
排除したマジョリティーの側であるかについて知るのは、
いつでも後の世の人間である。

極限までエゴイスティックで醜い人間の生き様に見え隠れする、
「つかの間の清浄な愛」がこの物語を照らす一筋のカンテラのような光である。

しかし、その光も、物語全体を闇から救いはしない。

ストーリー全体を通して、次々に怒涛のようにたたみかけてくる
「愛と呼ばれるものの大多数は、エゴである」としか解釈のしようがない、
エピソードやエゴイスティックな人物群が、
物語のわずかな部分を占める真実の愛という光を、
最後は燃え尽きたろうそくのように吹き消していく。

物語全体の基調となる、
「もっとも恐ろしい悪霊が取りついているのは、その時代にとって『普通の人々』であるかもしれない」
という、
多くの人にとっては目を背けたい厳然とした真実。

その重みに加え、
わずかな愛の光すらがかき消されるかのようなリアリスティックな結末。

この物語の勝者はあくまでも俗人と身勝手な人々であり、
敗者は純粋さをもつ人々である。
それは何とも現実の世界に近似している。

徹頭徹尾、救いのない物語の終わりに、
かえって次の光の出現を期待するような精神の浄化が起きると感じるのは
私だけだろうか?