社長失格の幸福論
 社長失格―僕の会社がつぶれた理由−が、倒産の社会的側面を描いた本だとすれば、これは倒産前後の著者の内面的な部分にスポットをあてた本である。本書でも、著者の鋭い自己洞察力は余すところなく発揮されている。まさしく、自分に関してのディスクロージャーだ。

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 社長失格―ぼくの会社がつぶれた理由―のほぼ最後の部分に、全体の本筋とは関係がないが、私が興味を抱いた一節があった。
 
 その一節の概要は、自分が創設したベンチャー企業が倒産し自己破産の手続きのために裁判所に向かう著者が、地下鉄日比谷線の車内で、向かいの座席に本を読む魅力的な女性を見かけ、「あんな女性をもう一度手に入れられる勇気が、力が欲しい。」と思う下りである。
 勿論、著者は、この女性に声をかけるわけではなく、そのまま裁判所にに向かう。
 
 この時点での女性は、著者にとって一つの価値あるものの「象徴」または「記号」である。 
 
 以前から、私が疑問に思っていたことのひとつに、仕事が出来る男性のうち、かなりの数の人達が、(全部ではない。極めて家庭的な人もいる)が、女性を「記号」としてしか捉えていないのは何故か?ということがある。
 
 それが悪いといっているのではない。

 彼らは、働く女性である私に対して「セクハラ」をするわけでもなく敬意をもって対等に接してくれる。かえって、そういう男性は身近なレベルの女性の容姿レベルでは満足しないので、こちらにとってはありがたい位、付き合い易い場合だって多い。

 それに、女性との交際が盛んだとはいっても、別に犯罪を犯しているわけでもなく、大人の男性が大人の女性と交際しているわけであるから、仕事さえきっちりやってくれさえすれば、他人がとやかくいう部分でもない。
 
 そういうわけで、「いやあねえ。男って」などと彼らを批判したいとわけではなく、純粋に女性を自己のモチベーションの動機付けに用いているというその心理状態に興味があったのだ。
 
 そういう男性が最も好む女性は、主にモデル、スチュワーデス、クラブの女性などのように容姿端麗で極めて分かりやすい記号をもつ女性達。つまり、外側から見て分かりやすい女性達だ。そして、彼らの女性観の特徴は、「別の美しくて魅力的な女性がいればいつでも取替え可能」である、という点だ。

 彼らにとって、女性を手に入れるということは新しいスポーツカーなどの高価な玩具を手に入れることと極めて似ている。先に挙げた女性達だって、本当は内面的にはそれぞれ個性があり、交際が個人的なものに及んだ後までずっと、「記号」として扱われるのは不本意な人もいるであろう。

 「男性特有の狩猟本能」の一言で、これらを説明することも出来るだろう。
 
 生物学的側面からいえば、こうした起業家、スポーツ選手などは「男性性」が極めて特化した高テストステロンなパーソナリティの持ち主であることは間違いない。
 
 しかし、もっと高次脳機能に近い側面、性別を超えた脳の領域、もっと簡単にいうと精神的な面では、彼らはこれらの狩猟行動によって満たされるのだろうか?この問いを発したら、彼らの多くは「満たされるに決まってるじゃないか。好みの女性ととっかえひっかえ付き合えるんだから」と自信をもって答えるに違いない。少なくとも、彼らの仕事がノッている間は・・・・。
 
 本人達は、「色々な女性と遊ぶのは楽しい。縛り付けられるのは嫌だ」と思っていると心底、信じ込んでいるであろう。彼らは、一人の女性に決めてしまうことによって多数の女性との交際のチャンスを失うことを心底恐れているように見え、そう行動する。何しろ、これからの人生で、女性は幾らでも手に入るのだから。
 
 そして、「魅力的な女性を今後幾らでも手に入れることが出来る自分」を維持し続けようとすることこそ、彼らの仕事の原動力である。勿論、ここでいう魅力的な女性とは、自分が満足するだけでなく、ぴかぴかのスポーツカーのように、誰もが圧倒されるよう位のレベルで見た目が良く、周囲が圧倒されるような存在の女性でないといけない。同じ新車でも、ただの国産車では、彼らは満足出来ない。
 
 彼らが美しい女性を求めることには、美しい絵画や景色を眺めるように、自分の視覚を満足させるという意味以外に、周囲に自分の価値を知らしめるという意味があるからだ。その点では、女性が幾つになっても美しく装ったり、ブランド物のバックを持って自分の価値を高めようとする行為と彼らの行動は、外見を整えることを重視するという価値観においては全く同格である。
 
 そして、それらの「装う」行動は、人間を生物学的な存在と捉えると、ごく自然の行為であるともいえる。
 
 しかし、潜在意識の下の彼ら自身は、何を思っているのであろうか?
 つまり、私が問いたいのは、人間は、男女を問わず、こういった表層レベルの欲求を満たすことだけで、真に満足できるか否かということである。
 
 その答えを説明するのは、かなり難しく、一筋縄ではいかない。
 
 段々、長くなったので、この話題を掘り下げることはまた別の機会に譲る。

 しかし、この本を読むことによって、これらの疑問に対する答えが、多少なりとも分かってきたような気がするのは大きな収穫であった。私以外の女性も、この本を読むことによって、そういった男性特有の女性観に対する疑問が多少なりとも解けるのではないだろうか?

 勿論、男性の方が自己の女性観や幸せな恋愛の定義をもう一度見つめなおしていただくのにも役に立つ。最も、男性の多くは、女性と異なり自己の女性観や恋愛観をじっくり見つめなおそうという欲求をあまりもっていないようであるが・・・・。
 
 異性に対する好みは、人それぞれ。
 美しい女性じゃなきゃ嫌、という主義の男性の心理をとがめるつもりはない。女性にだって、「学歴、収入」などの記号を重視した恋愛をする人だって沢山いる。
 
 恋愛・結婚は極めて個人的な体験だ。
 記号を愛する人は「幸福」にはなれないなどと、青臭いことを言うわけでない。
 何が幸福かは、基本的に自分が決めることだ。
 
 しかしこれだけは言える。
 こうした「記号」を求める恋愛は、自分がある程度恵まれている状態でしか成り立たないということだ。それは、お金がないとモノが買えない、ということに似ている。記号を介した恋愛は、条件を介したマッチングだ。若くて美しい女性が経済力の男性とお互いの価値をトレードしあう取引なのだから。
 
 断っておくが、この本の大半は、会社を倒産に至らせた著者の内面的な軌跡を描いており、著者が自分の女性関係を露出している暴露本ではない。

 大半の部分は作者の経済活動に関する自己洞察が占め、女性に関する記述は、その中の一部分に過ぎない。私がたまたま、その部分に多く反応して、上記のような感想を述べたまでである。

 何十億もの負債を抱えた倒産のことを語っている本であるのにも関わらず、読後感は、不思議とすがすがしく、青空の下を歩いているような感じすらする。自分の価値観、恋愛が淡々と描かれているこの本を読んだ後は、読者である私も、著者のように、陽だまりの川べりを犬と散歩しているような、静かな幸福感を味わうことが出来た。
 
 私はちなみに、基本的に男女を問わず、この著者のように淡々として客観性がある人物の方が、ウエットで情緒に片寄り過ぎている人より、人間として付き合いやすいと思っている。

 本を読む醍醐味の一つは、自分と全く違ったタイプの人物像に、自分と似た部分を見つけることが出来る点だ。

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