太りゆく人類―肥満遺伝子と過食社会 ハヤカワ・ノンフィクション
現代文明社会に生きる私たちが何かを食べるというのはどういうことだろうか?
「空腹だから食べる」というシンプルな理由だけではあるまい。
むしろ、私たちは、「評判の店のおいしい品だから」「旅先の珍しい品でここでしか味わえないから「誰かと喜びを分かち合いたい」というという、本来の生命をつなぐための手段としての食欲とはかけ離れた部分を満たすためにたべる。
 少なくともこの国で、「今何かを食べなければ餓死するからこれを食べる」ということは、まずないだろう。

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 元々、人間が空腹を感じるということは、単なる消化管の問題でなく、視覚や嗅覚によっても惹起されるのが普通だ。そういった視覚や嗅覚を過剰に刺激しようとする様々な情報や知識のために、食欲が過剰に触発される現代社会。 そして、人間を含めた動物は、ある行動をとるのに本来必要な程度をはるかに超えた過剰な刺激に弱い生き物であり、食欲もその例外ではないというわけだ。

 食が完全にレジャー化しているのが現代文明国の現状である。
 勿論、西洋社会を例にとれば、ヨーロッパではそれが文化として洗練され、アメリカではそれが質、量ともに病的に肥大しているという違いはある。

 私たち日本人も同じである。この国の人々はもはや、食欲の有無すら関係なくものを食べる。空腹でなくとも、そこに評判の品があるから食べるという行動すらとるようになってしまっているのだ。

 「行列の出来る店」というのがある。
評判の店に並んでまで食べ物を買う行為というのは、ディズニーランドの話題のアトラクションに何時間待ってでも乗るような、ひとつのイベントであり、本来の食欲とは関係のない行為である。
 食がレジャー化している現代文明国の間でも、並んで買った食べ物に価値を見出すのは、恐らく日本だけだろう。皆と同じものをありがたがる国らしい現象である。

 日本が貧しかった頃を知っている私の母は「何が悲しくて並んでまで食べ物を買うの」と言う。母は老舗のおいしい店や料理には詳しいグルメな方であるが、この現象だけには冷ややかな発言をする。
 
 これだけ食べ物の店が多い時代である。
 確かに、たった今、本当に我慢できないくらいお腹が空いているせっぱつまった状況なら、行列などせずに、今日のところはとりあえず別の店で何かを食べるだろう。
 たとえ、自分自身は空腹だと思っているとしても、究極的には、少なくとも空腹の切迫度は「並んでいる間待てる程度の」ものであるのは間違いない。
 私自身も、我が母とは少々理由が違うが、時間がもったいないので並んで食べ物を買うのはキライだ。そもそも、そんな時間があるならさっさと家に帰ってありあわせの料理でもつくった方がましだと思っている方である。

 ともかく、これらのレジャー化した食行動のもたらすものは肥満、そしてそれによる各種の生活習慣病、ひいては基づく心疾患や脳血管障害などの重大な病気。もはや私たちは、食によって命を縮めてすらいる。それ以外にも、肥満による自己イメージの悪化による経済活動へのモチベーションの低下、医療費の高騰などの社会的不利益もある。

 たとえ太らなかったとしても、質的に問題のある食事が健康を損なうことは間違いがない。
 もはや私たちの食事の質の悪さは、食料が乏しさや貧しさのためにわずかな食料しか手に入れられないため(つまり栄養失調)ではない。
 過剰な刺激を求め続ける脳の働きのせいで、間違ったおいしさを好む味覚センスを持つようになったために生じた栄養素の偏り、食べすぎによる過剰な量の食物の摂取の結果起きた質の悪さなのである。

 しかし、これらの人生を損ねる結果をもたらす、ある意味病的な食欲を、現代人はコントロールすることが出来ない。いったん過剰な刺激に慣れてしまったら、普通の刺激では満足出来なくなってしまうのが人間の悲しい性なのである。

 これらの食行動の対極にあるように見える、「ダイエット」が同様に、レジャー化しているのがまた興味深い点である。ありあまる情報に支配され、それが過剰になるにしろ過少になるかの違いである。肥大した食欲の結果必要となったダイエットという行為が、食と並ぶくらいの巨大な産業となりつつあるのを、もう誰にも止めることが出来ない。

 私たちは何故、食に関しては、中庸を歩むことが難しくなってしまったのだろうか?

 このようにゆがめられてしまった食文化の成り立ちを知るために、お勧めなのが本書である。

 それから、本書は、最初に発見された肥満遺伝子ob遺伝子とそれが産生する物質レプチンについて、ページをかなりさいている。もしもご存知ない方には、とても興味深いと思われるので、一読の価値はあると思う。
 
 ただし、こうした知見が明らかになったせいで「自分が太りやすいのは遺伝のせい」とばかりに、なんでも遺伝子のせいにして、自らの食行動に何の反省ももたない人が増えているのが私は心配だ。    
 
 あくまでも、現代人の肥満の多くは、肥満遺伝子が悪いのではなく、自らの遺伝子がコントロールする能力を超えた過剰な食生活(カロリーオーバー)と運動不足が主体である。

 遺伝子の問題で「とても太りやすい」人だけでなく、本来普通にしていれば太らない「太りにくい」人まで太ってしまうのが現代社会だということを忘れずにその記述を読むことが極めて重要だと思われる。
 
 何かに失敗する人の癖として、「何でも自分に都合良く解釈する」「何でも自分以外の外的要因のせいにする」ということがある。その結果、自分に極端に甘くなってしまうために苦杯をなめのである。
 ダイエットしかりであるからである。

 今後も、これまでに見つかっているレプチン、βアドレナリン受容体といった肥満に関わる遺伝子以外に、これからもいくつかの遺伝子が発見されることだろう。
 その結果、恐らく、結局はどれかひとつの「肥満遺伝子」に異常がある人の方が、ない人よりも割合が多いということになるかもしれない。
 人間は、本書にもあるとおり、飢餓に備えて、生きる残るために脂肪を蓄える能力が高いということが本来望ましい姿であるのだから。
 
 肥満がほぼ単一の原因で起っているごく少数の人では、遺伝子治療によりなんの努力もなく肥満が改善する日は近いのかもしれない。
 しかし、特殊な例を除くほとんどの人にとっては、肥満は多くの複合的要因によって起るということを忘れてはならないと思う。 
 人間の多くの病気が複数の遺伝子(いわゆる多因子遺伝)と後天的な多数の要因からなる複合的な要因の結果起こる場合が大半であることを、いつの世も忘れてはならないと思う。

 それでは、肥満遺伝子の有無を知ることは何の役にも立たないかというと、そうでもないと思う。
 それぞれの遺伝子がコントロールしている特定の代謝の領域が判明することによって、自分の代謝の癖を知り、より個人の特性に合わせたダイエットが可能になるかもしれないという意義は大きい。
 個人による太りやすさの違いを見極めることにより、現在の、画一的な総カロリー重視の栄養指導を改めることが出来るかもしれないのだ。
 また、元々太りやすい傾向があると分かった人は、若いうちから普通の人より食生活に注意を払うといったことも可能であろう。
 つまり、より進化した形でのいわゆるテーラーメード医療の可能性が広がるという意味では遺伝子の発見の意義は大きい。
  つまり、遺伝子の個性によって努力の方向性を変えることが出来るようになり、効率の良い努力が出来る日は、もしかしたら近いのかもしれない。
 努力がゼロで済む日は多くの人には訪れないだろうが、努力が限りなく少なくて済む日がくるかもしれないのだ。
 
 ダイエットをしようとしている人、健康のために何か「特別な」食生活を始めようとしている人は、まずこの本を読んで自分を見つめ直すことが、きっとお役に立つかもしれないと私は信じる。


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